シェイプオブウォーターとパンズラビリンス

アマゾンプライムから外れるって言うんでデルトロ監督の『パンズラビリンス』を観た。シェイプオブウォーターは劇場で見たんだけど、それ以外のデルトロ監督作品はパシフィックリムしか見たことなかった。
 
シェイプオブウォーターが公開してた時、あるブログで「白人の大佐も苦しんでたのに勧善懲悪的に殺した。所謂『被差別者』だけを善とするのはいかがなものか」みたいな感想を読んだ。確かにあの映画では口のきけない主人公や黒人、ゲイの友人ばかり「善」的な生き方をしていて、白人である大佐の行動は最後に殺されても当然なほど、ことごとく「悪」であった。(この傾向は他のフィクションの中でも見られるが、この原因の一端を担っているのは現実世界のリベラルの皮を被った差別主義者たちが、ただ抑圧され続ける「善い」マイノリティ像を作り上げているという事実なのではないのかということは置いておく)
 
しかし果たしてデルトロ監督は本当にそのような勧善懲悪を描きたかったのだろうか。ここで重要に思えるのが大佐も苦しんでいた描写があるという点である。大佐は終始、日々のプレッシャーからストレスを感じて生きていた。それは上司の圧があったからかもしれないし、家庭を持っていたからかもしれない。また劇中彼は指を切られるが、終盤にさしかかり彼にさらに強いプレッシャーがかかっていくのにリンクして、指が腐り、においがキツくなってくる様子は、日々ストレスに生きる我々にとってかなり感情移入できるところなのではないだろうか。そのような苦しみを彼は感じながらも、最後には半魚人に首を切られて死んでしまう。要するにここで重要なのは、もし勧善懲悪を描きたかったならばそのような「悪」が揺らぐような描写は必要であろうか、という点である。このような描写から、表面的な属性(そもそもこのような「属性」は今でこそアイデンティティとして機能しているがもともとマジョリティによるラベリングの結果生じたものである場合も多い)を超越した物語を作っているように思える。白人の大佐も口のきけない主人公もみんな平等に規範、価値観、潮流の被害者なのだ。みんなそれぞれある面では辛いけどある面では比較的有利だよね、みたいな具合に。で、その平等の上でどれだけ人間的に生きるか(つまり、規範や価値観なんかに惑わされず、長いものに巻かれずに生きるか)を重視しているのだと思う。巻かれる長いものがないという点では被差別者の方が有利だったという見方ができるが。
 
ここからは『パンズラビリンス』のラストと比較しながらもう少し考えていきたいと思う。一見するとこの映画はシェイプと正反対のラストである。この映画にも同様に、抑圧される、力のない主人公の少女と、力ある大尉との対立関係がある。しかしシェイプと違う点は最後は二人とも死んでしまうというところだ。あまりにも少女が報われないラストである。だが私はパンズもシェイプも一貫していると考える。やはりここでも既存の規範や価値観に負けない、長いものに巻かれない精神を重要視しているように思われる。パンの甘い言葉に惑わされず弟を守った少女は永遠の王国へ行き、現実的にも弟を守った勇敢な姉として人々の心に残り続けるだろう。一方大尉は部下もみな死に、息子に名前を教えるという最後の願いすらも聞き入れて貰えなかった。また、客観的に見ても、劇中に最終的な勝利を得たのは人民戦線ゲリラであった。この映画の舞台となっている1944年のスペインは、内戦がとっくに終わってフランコ政権が盤石になりつつあるときであったにも関わらずだ。要するにぼくが言いたいのは、デルトロ監督は浅い勧善懲悪をやってたんじゃなくて、ちゃんと人間を描いてるよってこと。
 
しかしながら結局シェイプでなぜ白人が死んで被差別者だけが一方的ハッピーエンドになるかの答えを出すことはかなわなかった。やっぱり商業的なアレが働いたんかな~。