ドラゴンクエストビルダーズ スクショ置き場

 

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すごいゲームです。最初の拠点だけでもう10時間以上遊んでる

行き当たりばったりで拠点拡張してきたけどようやくひと段落ついたのでスクショ載せていきます

 

まずは地上。適当に土だけ掘って整地してたらいい感じに荒涼としてくれたので、それからほとんど手を加えてません

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わかりづらいけど堀を作りました。果たして意味を成しているのかは謎。そのうち水も張れたらいいなと

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次に地上10マスに位置している二階(?)部分です

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これが航空写真

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最初はもっと管理社会的な配置を目指してたんですが上手いのが思いつかなかったのと、土ブロックしか使えなかったので最終的にこうなりました

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余談 階段のある中心の部屋、床に穴空いてるにもかかわらず部屋として認識されたんだけど、どういう処理してるんだろう

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あと拠点レベルの経験値がマイナスになることはないから、レベル上がった直後にモノを配置し直すだけで経験値を貰えるという謎仕様に戸惑ったりなどしました。というかそもそもこのパラメータの意義がよくわかんないから上げてもイマイチ恩恵を感じられないという…

 

いつかはもっとディストピアチックな、なんかこうパノプティコンみたいな建造物を作りたいなと思ってます

『天元突破グレンラガン』と気合と例の大学

 この前ニンジャバットマンを見て、中島かずきを見たくなったので『天元突破グレンラガン』を見た。いやースケールが本当にバカみたいなアニメだった。ロボットアニメあんまりみないけどこのスケールのおかしさはグレンラガン特有のものだったのかな。あと声に出して読みたいセリフが多すぎる。全然頭に入ってこないけどものすごく心地よい耳ざわりというかテンポのセリフがいっぱいで、見習っていきたいと思った。
 
 気合はやっぱり何につけても重要で、気合で何でも乗り越えちゃうフィクションの中においては特にそうだ。後半(7年後の世界)でロシウは、今まで作り上げてきた社会やシステム全体を維持することを最重要視していた。また20話あたりで彼は、他の大グレン団のメンバーたちが100万人の人類と地球を守ろうとしたのに対し、少数の人間でもいいから人間という種を存続させようという選択を取った。これは21話のサブタイにもなってる、ロシウのヨーコに向けた「あなたは生き残るべき人だ」というセリフに如実に表れていると思う。ロシウのこの思想、この選択は、この作品の中では結果的に間違っていた(もしみんなが彼に従っていれば人類は滅亡していた)が、シモンは一貫して彼のこの選択を否定はしてなかったと思うし、自分としてもロシウの思想それ自体は筋は通っていると考える。7年前とは違い背負うものが大きく、理想をまるまる追い求めては守れるものも守れない。現実的、保守的な考えを持つことは必ずしも悪いこととは限らないだろう。しかし問題はここからで、ロシウはこの現実主義が失敗に終わった後責任を感じ、自殺を図ろうとする。そこでシモンにぶん殴られるわけだが、この「ぶん殴る」という行為がなかなか象徴的だと思う。こういう場合の「ぶん殴り」は、その人の選ぶ道それ自体に意見する「諭す」と違い、あくまでその人の主体的決定を促すということが目的で、「気合を入れる」という側面が強い行為のような気がする。このあとのことはそこまで描写されてないため、詳しいことは言えないが、ロシウは地球に残ったことから、変わらず秩序を維持する役割を果たしていたのだろう。要するに言いたいことは、ぶん殴られた後も、考えの根幹はそこまで変わってないということだ。その身に命の重みがのしかかっているという事実を受け入れ、耐えられるようになったというのが唯一変化したところだろう。
 ロシウはかつてのロージェノムやアンチスパイラルと同じ理屈で行動していたように思う。ある種功利主義的な、人類や宇宙全体を見通した考え方だ。反対にシモンは個人の自由的なものを突き詰めていったわけだが、だからといって全体を壊すこともなく、最終的には弁証法的な解決に気合で至った。で、ここでなんとなく関連付けてしまったのが、最近話題となっている東京医科大学の女子の点数を一律で下げていたという問題だ。この問題には色々立場があると思うが、さらっとtwitterで見た感じ、この明らかな女性差別へ反対するリベラルvs現行の医療制度を堅持しようとするコンサバの対立となっていると思う。前者は女子受験者にとっての損害やそれに伴って男女で医者になる機会の多寡が生じてしまうということを考慮した結果の主張であり、後者は現行の質の高い医療制度(比較的多くの人が簡単に医療を受けられるという意味)は医師への高負担の上に立脚していると考え、女性は出産でどうしても現場を離れなければならないときが出てしまうため、男性医師が多いことには一定の合理性があるという立場をとっている。ついこの間まで受験生だった僕としては、男性が多いことに合理性があったとしても、受験に隠れた不平等があったってのはなかなか辛いものがあるとは思うが、医療現場の男女比を均等にしなければならないかというとなかなか厳しい気がする。というのも、リベラルのこの主張では、表面だけ平等にしたところで今まで医療を受けられていた人々が受けられなくなってしまう可能性を孕むからで、リベラルな立場から考えた場合そういう人たちを切り捨てることはできないはずだからだ。またコンサバの主張のほうも、女性は医師になりにくく、そして男性へ現場での負担をかけているという現状をしっかり鑑みていかなければ、もちろん彼らの考えとしては、こういう人たちに対する責任を感じることはなく、バッサリ切り捨てるという選択肢もあるのかもしれないが、現行の医療制度を持続させるという大きな目的も果たせなくなる日が来るかもしれない。
 要するに、どちらの立場に立つにせよ、気合が必要だということだ。無論、フィクションの世界のように、気合があれば誰もが幸せになる解決法が見つかると言いたいわけではない。現実で「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」ということは不可能だ。しかし、自分の主義主張に一貫性を持たせ、筋の通ったものにするにはあらゆる利害を考え、現実に落とし込むにはどうすればいいか考え抜く気合が必要なのだ。これだけ言うのはなんだか無責任な気もするが、自戒の意も込めて記しておこうと思った次第。
ちなみに僕はガチ左翼なので人間が種を残すという行為それ自体に反対の立場です。

シェイプオブウォーターとパンズラビリンス

アマゾンプライムから外れるって言うんでデルトロ監督の『パンズラビリンス』を観た。シェイプオブウォーターは劇場で見たんだけど、それ以外のデルトロ監督作品はパシフィックリムしか見たことなかった。
 
シェイプオブウォーターが公開してた時、あるブログで「白人の大佐も苦しんでたのに勧善懲悪的に殺した。所謂『被差別者』だけを善とするのはいかがなものか」みたいな感想を読んだ。確かにあの映画では口のきけない主人公や黒人、ゲイの友人ばかり「善」的な生き方をしていて、白人である大佐の行動は最後に殺されても当然なほど、ことごとく「悪」であった。(この傾向は他のフィクションの中でも見られるが、この原因の一端を担っているのは現実世界のリベラルの皮を被った差別主義者たちが、ただ抑圧され続ける「善い」マイノリティ像を作り上げているという事実なのではないのかということは置いておく)
 
しかし果たしてデルトロ監督は本当にそのような勧善懲悪を描きたかったのだろうか。ここで重要に思えるのが大佐も苦しんでいた描写があるという点である。大佐は終始、日々のプレッシャーからストレスを感じて生きていた。それは上司の圧があったからかもしれないし、家庭を持っていたからかもしれない。また劇中彼は指を切られるが、終盤にさしかかり彼にさらに強いプレッシャーがかかっていくのにリンクして、指が腐り、においがキツくなってくる様子は、日々ストレスに生きる我々にとってかなり感情移入できるところなのではないだろうか。そのような苦しみを彼は感じながらも、最後には半魚人に首を切られて死んでしまう。要するにここで重要なのは、もし勧善懲悪を描きたかったならばそのような「悪」が揺らぐような描写は必要であろうか、という点である。このような描写から、表面的な属性(そもそもこのような「属性」は今でこそアイデンティティとして機能しているがもともとマジョリティによるラベリングの結果生じたものである場合も多い)を超越した物語を作っているように思える。白人の大佐も口のきけない主人公もみんな平等に規範、価値観、潮流の被害者なのだ。みんなそれぞれある面では辛いけどある面では比較的有利だよね、みたいな具合に。で、その平等の上でどれだけ人間的に生きるか(つまり、規範や価値観なんかに惑わされず、長いものに巻かれずに生きるか)を重視しているのだと思う。巻かれる長いものがないという点では被差別者の方が有利だったという見方ができるが。
 
ここからは『パンズラビリンス』のラストと比較しながらもう少し考えていきたいと思う。一見するとこの映画はシェイプと正反対のラストである。この映画にも同様に、抑圧される、力のない主人公の少女と、力ある大尉との対立関係がある。しかしシェイプと違う点は最後は二人とも死んでしまうというところだ。あまりにも少女が報われないラストである。だが私はパンズもシェイプも一貫していると考える。やはりここでも既存の規範や価値観に負けない、長いものに巻かれない精神を重要視しているように思われる。パンの甘い言葉に惑わされず弟を守った少女は永遠の王国へ行き、現実的にも弟を守った勇敢な姉として人々の心に残り続けるだろう。一方大尉は部下もみな死に、息子に名前を教えるという最後の願いすらも聞き入れて貰えなかった。また、客観的に見ても、劇中に最終的な勝利を得たのは人民戦線ゲリラであった。この映画の舞台となっている1944年のスペインは、内戦がとっくに終わってフランコ政権が盤石になりつつあるときであったにも関わらずだ。要するにぼくが言いたいのは、デルトロ監督は浅い勧善懲悪をやってたんじゃなくて、ちゃんと人間を描いてるよってこと。
 
しかしながら結局シェイプでなぜ白人が死んで被差別者だけが一方的ハッピーエンドになるかの答えを出すことはかなわなかった。やっぱり商業的なアレが働いたんかな~。

NieR:Automataとテクノロジーと人間

人間とテクノロジーの関係

 『NieR:Automata』は人間とテクノロジーとの関係が非常にサイバーパンク的だったように思う。人間の作ったテクノロジーによって人間自身が作り変えられていく過程を極北的に描くのがサイバーパンクだとしたら、このゲームはまさしくそうだ。そしてその「人間が作り変えられる」っていうのは大抵、テクノロジーを媒介にして「個」が融解していき、個人の境界が曖昧になっていくという、弱いところだと「ユビキタス社会」、強いところだと「人類補完計画」みたいなの感じのアレ。そう考えると、このゲームのいたるところにサイバーパンク要素が散りばめられてるということがわかると思うんだけど、ここでは気になったとこだけちょろっと書く。
 一番興味深いのは機械生命体。これはもともと脱個体的、集合意識的なものを想定してあのタコみたいな宇宙人が作ったんだと思うんだけど、ある時からパスカルをはじめとする多くの機械生命体たちが個性を得たという話だった。さっきアーカイブ漁ってみたらその「ある時」ってのは機械生命体全体が「人間を滅ぼす」って目的はそれをクリアしたら達成できないっていうある種の矛盾に気づいてしまって、その矛盾を解消するための戦略の一つみたいに書かれてたんだけど、何にせよ、個の区別がほぼなくなった状態で作られて、その後個が生み出されていくというのは何とも示唆的だと思った。というのも、まあ真っ先に連想されたのが攻殻で、人形遣いが素子に融合することを提案したとき、その理由として「多様性、ゆらぎ」を得るためというふうに言っていたことを思い出したからだ。もうちょっと詳しく言うと、その「多様性、ゆらぎ」はただコピーを残すだけでは結局またもとに戻ってしまうから生まれなくて、だから生物的な死を得たいみたいな話だったんだけど、機械生命体もまさに同じような結論に至ってるように思える。一つの系(システム)を維持するには多様性が重要になる。その系の個物を没するのではなく、むしろ個性を尊重した方が系全体としてもメリットがあるというのは来たる人類が補完された状態ではもちろんのこと、今現在の社会システムに対しても敷衍して考えることができて、そういう点が示唆的だと思った。
 だけどこのゲームでは情報理論的に考えると「全」にとって「個」を尊重することが重要みたいなのは置いといて、実際はそういいことばかりじゃないというというか、それも含めて人間賛美してるのかなと思う。
 

エモエモヒューマニズム

 ヨコオタロウの本領は人間をエモーショナルにさせて狂わせるところにあって、今回はアンドロイドが主人公だけどまあそれはエモエモを描くためのツールに過ぎないってことで、あくまで彼は人間のことを考えてると僕は思う。エモエモを描くツールっていうのは具体的に言うと、人間の自由や実存といった人間特有の尊厳みたいなのをぶっ壊してくる装置のこと(パっと例を出すとMGS2のS3計画とか『すばらしい新世界』の条件付けとか、ディストピア社会が人間を制限してくるアレ)。そういう軛から人間を解放したところで得られるものをマイナスのものも含めて描き切っているのがこのゲームだと僕は思う。9Sは2Bが死んで、イブはアダムが死んで憎悪に侵されていたが、9Sはヨルハ計画にただ従っていれば苦悩しなかったわけだし、イブはそもそも「個」として生まれ落ちなければこうならなかったわけで、このゲームの評価が高いのはこの苦悩を真正面から表現したところが結構大きいんじゃないかな。(一番売り上げに貢献した要素はパンツだと思ってるけど)
 ところで、フィクションの中でのアンドロイドやAIといったものの描かれ方は、人間と機械との力関係が明確にあって、それで虐げられているだなんだっていう話につなげていってるものが多い。「フィクションにはロボットを古い人間像に押し込めてるのが多い」みたいな話を聞いたことがあるけど、僕が思うに、フィクションの中のAI像は二種類あって、一つ目が神が人間を自らに似せて作ったように、人間を模すことを目的として作ったというパターン。二つ目が人間と機械は別物と考えて作ってるってパターン。圧倒的大多数のフィクションは前者だけど、個人的にあんまり好きじゃないのはこれら二種類のAI像を混同して、例えばさっきまである種無私の状態で人間のために動いてたのに急に自由を求めて人間に反旗を翻すムーブね。ニーアも前者だけど、少なくともアンドロイドはちゃんと人間に似せて作ったっていうのが示されてるから良いかなと思うけど。(しかしラストのポッドのくだりはすこれない)で、後者の場合のAIがなぜ人間に反乱してこないという確信があるのかというと、そもそも人間と機械の作りが違って、後者の場合は共生関係が築けると思ってるから。神山版の攻殻で多分タチコマが言ってたことだと思うんだけど、「人間はアナログでできてて、機械はデジタルだから根本的に考え方が違う」みたいな話をしてるシーンがあって、なんかこれがやたら記憶に残ってる。違うからこそ、組み合わさったとき、つまりサイボーグとなったときに弁証法的に高次の存在に至れるんじゃないかと。そこに支配するされるの力関係はなく、あくまで人と機械は対等だからこそ、サイボーグという共生関係がとれるのだと思う。(そういう感じでタチコマの話をしたいんだけどクソにわか攻殻ファンなので2ndGIGをまだ見ていないという…)
 ニーアに話を戻すが、要するに言いたいことは、キャラが全部アンドロイドや機械生命体なのは人間の自由や実存といった、尊厳とされているものを結構ぶっ壊してくる装置を作り出すためなのであって、とにかく人間を描こうとしていたってこと。アンドロイドは人間を模して造られたものだし、機械生命体も人類が保存してた記録を読んで人間への憧れみたいなのがあったわけで。そして個が生き返る話を描きつつもイブや9Sみたいなキャラにちゃんと苦悩を与えているあたり、ニーアは非常にまっすぐなヒューマニズム作品だったように思う。