NieR:Automataとテクノロジーと人間

人間とテクノロジーの関係

 『NieR:Automata』は人間とテクノロジーとの関係が非常にサイバーパンク的だったように思う。人間の作ったテクノロジーによって人間自身が作り変えられていく過程を極北的に描くのがサイバーパンクだとしたら、このゲームはまさしくそうだ。そしてその「人間が作り変えられる」っていうのは大抵、テクノロジーを媒介にして「個」が融解していき、個人の境界が曖昧になっていくという、弱いところだと「ユビキタス社会」、強いところだと「人類補完計画」みたいなの感じのアレ。そう考えると、このゲームのいたるところにサイバーパンク要素が散りばめられてるということがわかると思うんだけど、ここでは気になったとこだけちょろっと書く。
 一番興味深いのは機械生命体。これはもともと脱個体的、集合意識的なものを想定してあのタコみたいな宇宙人が作ったんだと思うんだけど、ある時からパスカルをはじめとする多くの機械生命体たちが個性を得たという話だった。さっきアーカイブ漁ってみたらその「ある時」ってのは機械生命体全体が「人間を滅ぼす」って目的はそれをクリアしたら達成できないっていうある種の矛盾に気づいてしまって、その矛盾を解消するための戦略の一つみたいに書かれてたんだけど、何にせよ、個の区別がほぼなくなった状態で作られて、その後個が生み出されていくというのは何とも示唆的だと思った。というのも、まあ真っ先に連想されたのが攻殻で、人形遣いが素子に融合することを提案したとき、その理由として「多様性、ゆらぎ」を得るためというふうに言っていたことを思い出したからだ。もうちょっと詳しく言うと、その「多様性、ゆらぎ」はただコピーを残すだけでは結局またもとに戻ってしまうから生まれなくて、だから生物的な死を得たいみたいな話だったんだけど、機械生命体もまさに同じような結論に至ってるように思える。一つの系(システム)を維持するには多様性が重要になる。その系の個物を没するのではなく、むしろ個性を尊重した方が系全体としてもメリットがあるというのは来たる人類が補完された状態ではもちろんのこと、今現在の社会システムに対しても敷衍して考えることができて、そういう点が示唆的だと思った。
 だけどこのゲームでは情報理論的に考えると「全」にとって「個」を尊重することが重要みたいなのは置いといて、実際はそういいことばかりじゃないというというか、それも含めて人間賛美してるのかなと思う。
 

エモエモヒューマニズム

 ヨコオタロウの本領は人間をエモーショナルにさせて狂わせるところにあって、今回はアンドロイドが主人公だけどまあそれはエモエモを描くためのツールに過ぎないってことで、あくまで彼は人間のことを考えてると僕は思う。エモエモを描くツールっていうのは具体的に言うと、人間の自由や実存といった人間特有の尊厳みたいなのをぶっ壊してくる装置のこと(パっと例を出すとMGS2のS3計画とか『すばらしい新世界』の条件付けとか、ディストピア社会が人間を制限してくるアレ)。そういう軛から人間を解放したところで得られるものをマイナスのものも含めて描き切っているのがこのゲームだと僕は思う。9Sは2Bが死んで、イブはアダムが死んで憎悪に侵されていたが、9Sはヨルハ計画にただ従っていれば苦悩しなかったわけだし、イブはそもそも「個」として生まれ落ちなければこうならなかったわけで、このゲームの評価が高いのはこの苦悩を真正面から表現したところが結構大きいんじゃないかな。(一番売り上げに貢献した要素はパンツだと思ってるけど)
 ところで、フィクションの中でのアンドロイドやAIといったものの描かれ方は、人間と機械との力関係が明確にあって、それで虐げられているだなんだっていう話につなげていってるものが多い。「フィクションにはロボットを古い人間像に押し込めてるのが多い」みたいな話を聞いたことがあるけど、僕が思うに、フィクションの中のAI像は二種類あって、一つ目が神が人間を自らに似せて作ったように、人間を模すことを目的として作ったというパターン。二つ目が人間と機械は別物と考えて作ってるってパターン。圧倒的大多数のフィクションは前者だけど、個人的にあんまり好きじゃないのはこれら二種類のAI像を混同して、例えばさっきまである種無私の状態で人間のために動いてたのに急に自由を求めて人間に反旗を翻すムーブね。ニーアも前者だけど、少なくともアンドロイドはちゃんと人間に似せて作ったっていうのが示されてるから良いかなと思うけど。(しかしラストのポッドのくだりはすこれない)で、後者の場合のAIがなぜ人間に反乱してこないという確信があるのかというと、そもそも人間と機械の作りが違って、後者の場合は共生関係が築けると思ってるから。神山版の攻殻で多分タチコマが言ってたことだと思うんだけど、「人間はアナログでできてて、機械はデジタルだから根本的に考え方が違う」みたいな話をしてるシーンがあって、なんかこれがやたら記憶に残ってる。違うからこそ、組み合わさったとき、つまりサイボーグとなったときに弁証法的に高次の存在に至れるんじゃないかと。そこに支配するされるの力関係はなく、あくまで人と機械は対等だからこそ、サイボーグという共生関係がとれるのだと思う。(そういう感じでタチコマの話をしたいんだけどクソにわか攻殻ファンなので2ndGIGをまだ見ていないという…)
 ニーアに話を戻すが、要するに言いたいことは、キャラが全部アンドロイドや機械生命体なのは人間の自由や実存といった、尊厳とされているものを結構ぶっ壊してくる装置を作り出すためなのであって、とにかく人間を描こうとしていたってこと。アンドロイドは人間を模して造られたものだし、機械生命体も人類が保存してた記録を読んで人間への憧れみたいなのがあったわけで。そして個が生き返る話を描きつつもイブや9Sみたいなキャラにちゃんと苦悩を与えているあたり、ニーアは非常にまっすぐなヒューマニズム作品だったように思う。